2012年2月23日木曜日

将棋棋士、坂田三吉(阪田三吉)は、没後に名人位・王将位を追贈されていますが、そ...

将棋棋士、坂田三吉(阪田三吉)は、没後に名人位・王将位を追贈されていますが、それはなぜですか。また、他にそういう方はいますか。



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日本史カテから出張します。

坂田三吉翁の功績を称えて、将棋連盟は昭和30年に故坂田三吉八段に「名人・王将」の称号を追贈しています。

この辺の事情ですが、坂田翁歿後の昭和22年に北条秀司は戯曲「王将」を書き、新国劇で上演されるや大人気となり、様々な分野での東西対決を巻き起こしたり、将棋名人戦の契約が朝日新聞に移行した後の毎日新聞は新棋戦に「王将戦」と命名するなどのブームが起こりました。(王将戦のネーミングについて北条「王将」の影響があったことは当時の毎日新聞観戦記者の倉島竹二郎氏の著作で明らか)そうしたことでわかるように、将棋界の宣伝・普及効果に坂田翁の功績があったこともまた事実でありました。(村田英雄の歌謡曲「王将」は昭和36年なので追贈以降の話)

さて、追贈に至った直接の要因ですが、この数年前から戦争中に構造強度不足もあって軍需物資用に解体し供出され姿を消した通天閣の再建話があって、昭和30年には二代目通天閣の管理会社の設立と着工式が行われ翌31年に完成しています。その際通天閣やその場所=新世界に所縁の深い坂田三吉翁への顕彰要請が関西の市民、政財界から起こり、将棋連盟がそれに応じたわけですが、称号について、戯曲で坂田翁と結びついた「王将」と共に坂田翁が生前固執した「名人」の両称号=当時の最高栄誉=を追贈することにしたわけです。将棋界では坂田翁から特別に目をかけられていた升田幸三、大山康晴両氏の力が大きかった。と言われます。(両氏の師匠である木見金治郎師より先に追贈、升田=名人戦の朝日新聞嘱託、大山=王将戦の毎日新聞嘱託)



将棋の称号追贈の歴史としては、

【名人】伊藤看寿(1719-1760)=詰将棋「将棋図巧」が有名=が没後兄である七世名人伊藤宗看(三代)から追贈

【名人・王将】坂田三吉。昭和30年追贈

【名誉名人】小菅剣之助、昭和11年生前襲位。大正10年に名人に推挙されるが辞退し、弟弟子の関根十三世が名人となった経緯から。

土居市太郎、昭和29年生前襲位。関根後の名人襲位が内定していたが名人位が実力制に変更になった際快諾した経緯。

【名誉九段】金易二郎、加藤治郎、高柳敏夫、佐瀬勇次

【名誉十段】塚田正夫(没後)



【追記】他に大正期に小菅・関根両氏によって天野宗歩に「棋聖」の称号(棋聖戦のできるはるか昔)が、また都度の規約改正で「永世名人」=木村義雄引退以降、「永世王将」=大山康晴の無冠によって現役襲位(1973年)、「実力制第X代名人」(1988年)ができたりしている。

また段位の追贈は相当数行われている。(現役で急逝した山田道美の同日九段追贈は画期的だったが、引退後や歿後の追贈は相当数実施されている)



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将棋の名前を世の中に宣伝した功績です。

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